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金が滅ぼされるとその領土は蔡州

金が滅ぼされるとその領土は蔡州(現河南省汝南県)と陳州(現河南省淮陽県)とを結ぶ線を国境とし、東南を宋が西北をモンゴルが取る約束であったが、宋朝廷はこの機会に開封を回復したいと望んで、盟約を反故にした、

背信に怒ったモンゴル皇帝オゴデイは宋に対する攻撃を行い、四川の大半を陥落させるが、宋側も抵抗し、戦線は膠着した。更に1241年にオゴデイが崩御し、その後継を巡ってグユクとモンケの間で争いが起こり、最終的に1251年にモンケが反対派を粛清して国内を治めた。

国内が安定させたモンケは弟クビライに対して大理国の征伐を命じ、クビライはこれに答えて1253年に征服を完了。モンケ自身も1258年に親征し、クビライ・ウリヤンカタイを別働軍として三方向から宋を攻める大戦略に出た。

しかしその翌年にモンケが崩御。後継を巡ってクビライと末弟のアリクブケの間で争いとなり、1264年にアリクブケが降伏してクビライが勝利。その後しばらくはクビライは国内統制に力を取られるが、1267年になって宋に対する再侵攻を開始。宋も抵抗を続けるが、1276年に臨安を占領され、更に1279年に最後の皇帝衛王も入水自殺し、宋は完全に滅亡した。

長い間、宋が能動的・日本が受動的で進められていた日宋貿易であったが、日本国内の経済的発展により、貴族たちの物質的豊かさに対する欲求は増加し、朝廷・大宰府による貿易統制はなし崩しに崩れていった。その流れは平氏政権の成立と共に更に加速し、平清盛は日宋貿易を国の財政の根幹とするべく一時福原京に遷都した。

一方、宋側の態度は北宋時代と同じく民間交易は認め、それに課税して収入とするというものである。

交易される物品は宋から日本へは絹・陶磁器・薬品・書物・経典・銅銭など、日本から宋へは金・銀・真珠・硫黄・工芸品などである。
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航海技術に不安のあった日本商船は最初は高麗へ訪れ、経験を積んだ後に南宋へと訪れていった。日本船が宋の記録に始めて現れるのが紹興十五年(久安元年、1145年)に「日本商人男女19人が温州に漂着した。」[3])というのが最初で、南宋末までに10数例がある。ただしこれは記録に残すような特別な事例がこれだけということであって、実際の数はこれよりもはるかに多かったと推察される。

平氏政権が倒れ、鎌倉幕府が成立すると民間による交易は認めるが、清盛のように自ら交易に乗り出すことは無くなり、不干渉の態度を取った。そのため民間交易は一層進展し、源実朝は宋の僧侶の話を聞いて宋へと渡ることを企図したといい、当時宋へと渡ることの危険性がかなり減少していたことをうかがわせる。

鎌倉時代の中期ごろになると幕府は海外交易に対して次第に統制をかけるようになり、建長六年(1254年)に唐船は五隻までそれ以上は破却せよという命令を出している[4]。

その命令が出された5年後より宋はモンケの親征を受け、更にクビライに代わって後の攻撃によりついに滅亡した。咸淳二年(1266年、元至元三年、日本文永三年)には元から日本へ使節が送られているが、その主な目的は日本と南宋との繋がりを絶って、南宋攻略への足がかりにすることにあったと考えられる。

宋が滅んだ後、元寇などがあって日本と元政府との間は緊張状態にあったが、民間交易はなおもって盛んであり、日宋貿易は基本的に日元貿易と引き継がれた。

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2009年05月31日 10:07に投稿されたエントリーのページです。

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